ショウジョウバエの不眠遺伝子の発見


   熊本大学発生医学研究センター  粂 和彦 

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【概要】
 ショウジョウバエは、1日の70%程度の時間を、じっと動かない状態で過ごす。これが、ハエの睡眠と考えられている。この睡眠時間が極端に減少したハエを見つけ、その原因が、ドパミン・トランスポーター遺伝子の異常であることを発見した。このことは、昆虫の睡眠覚醒制御に、哺乳類と同じ物質と遺伝子が使われていることを、初めて示した。
 この成果は、熊本大学と米国のタフツ大学、バージニア大学の共同研究として、2005年8月10日発刊の、米国神経科学会誌に発表した。

Dopamine is a regulator of arousal in the fruit fly.
Kazuhiko Kume, Shoen Kume, Sang Ki Park, Jay Hirsh and F. Rob Jackson
Journal of Neuroscience 25: 7377-7384, 2005
本論文のPDFファイルはこちら(http://k-net.org/science/JNS2005.pdf)


【今回の発見の意義】
 この発見の意義は、ショウジョウバエと人間という、種として離れた動物の間で、覚醒制御に同じ物質と同じ遺伝子が使われていることを証明したことです。 ハエもヒトも、ドパミンという物質を覚醒制御に用いており、その量を低く調節している遺伝子(ドパミン・トランスポーター)の働きをダメにすると、 眠らなくなることがわかりました。 覚醒物質のコカインや、アンフェタミンも、このトランスポーターを抑えてしまうことで、目を覚まさせます。
 以前から、哺乳類だけではなく、魚や、虫も、「睡眠に似た行動」をすることは知られていましたが、その制御が遺伝子レベルでも似ていたため、 覚醒睡眠制御の原型がハエとヒトの間で、進化的に保存されていることがわかりました。 つまり、この2種類の動物が進化的に分離した数億年前まで、睡眠覚醒行動のルーツ、そして、その生物学的意義も さかのぼれる可能性があります。

【研究内容の詳細】
1.従来の研究で、睡眠が体内時計に制御されていること(補足1)、 体内時計の遺伝子が哺乳類と昆虫で保存されていること(補足2)、が示されていました。 しかし、覚醒維持は意識という、ヒトの脳の機能の中でも、最高次の機能の基本部分で、その制御機構は、高等動物にしかない可能性もありました。 また、人間の睡眠を特徴づけている、レム睡眠とノンレム睡眠の2種類の睡眠は、鳥類と、ごく一部の爬虫類にあるだけで、同じ脊椎動物でも両生類、魚類にはないとされています。 当然、無脊椎動物である昆虫には、存在しません。
2.ところが、昆虫などの下等生物においても、「睡眠に似た静止行動」が存在することが、示されてきました。 この静止行動は、概日周期による制御、恒常性の制御、覚醒域値の上昇という、行動学的に睡眠との類似性が高いことが知られていました。 そこで、私たちは、遺伝学的手法に優れ、概日周期の遺伝子がほぼ解明されているショウジョウバエを用いて、この睡眠類似行動を解析していました。
3.その過程で、普通のハエが、1日の70%程度の時間を、じっと動かない状態で過ごすのに対して、この静止時間が3分の1から、5分の1程度に減ったハエを2001年に偶然見つけ、解析を行ってきました(図1.不眠のハエの発見)。その結果、このハエは、起きている時間当たりの動く量は、普通のハエと変らないが、起きている時間が3〜5倍長いため、1日当たりの活動量は、3〜5倍に増えていること、また、じっとしている時間帯でも、覚醒域値が低下していることなどを見出しました。
4.さらに組み換えを用いた解析から、このハエの異常が、ドパミン・トランスポーター遺伝子の異常によることをつきとめました(図2.不眠の遺伝子のマッピング)。このドパミン・トランスポーターは、ドパミンの量を、一定以下に調節する役割を持ちます(図3.ドパミン・トランスポーター補足3)。覚醒物質のコカインや、アンフェタミンが、このトランスポーターの働きを抑えてしまうことで、目を覚まさせることからわかるように、人間でも、このトランスポーターが、覚醒制御に重要な役割をしています。
5.ショウジョウバエの行動静止が、睡眠と類似していることは、2000年に、米国の二つのグループから発表され、さらに、2005年の3月には、Shaker という遺伝子の異常が、ハエの睡眠類似行動に異常を来たすことが示されていました。また、私たちの発表の直前の2005年7月に、別のグループが、薬理学的な研究を用いて、ドパミンがハエでも覚醒制御に関係する可能性を示しました。しかし、哺乳類でも覚醒制御に重要な遺伝子と同じ遺伝子(ドパミン・トランスポーター)が、ハエの睡眠覚醒制御に使われていることを示した点で、今回の発見は、画期的です。
6.このことから、概日周期生物時計(体内時計)の中枢と、睡眠覚醒制御の一次中枢は、昆虫の脳と、哺乳類の脳で、原型が保たれている可能性が強まりました。(図4.昆虫と哺乳類の脳の比較
 今後、この遺伝子とドパミンの働きをさらに解析することにより、概日周期制御と睡眠覚醒制御との関係や、睡眠類似行動の生物学的な意義、さらには、哺乳類の睡眠の制御機構解明への寄与が期待されます。
7.なお、この研究の基礎的な部分に関しては、下記の著書にもわかりやすく書いています。
時間の分子生物学 〜時計と睡眠の遺伝子 (講談社現代新書、2003年:¥735)
  (第35回講談社出版文化賞 科学出版賞受賞、2004年)



【補足】
1.睡眠と体内時計の関係
 睡眠は、眠気によって、その量(長さ)と質(深さ)を、調整されています。私たちは眠くなると眠り、眠くない時は眠れません。この眠気は、まず睡眠そのものホメオスターシス制御により、その量が決まります。ずっと起きていると、だんだん眠気が貯まってきます、そして、眠ると眠気が解消されます。
 これに加えて、眠気は、体内時計(概日周期)の影響も受けます。つまり、体内時計が昼の間は、眠気を覚ます信号、つまり覚醒信号を送るため、眠気が弱まります。そのため、日中は、比較的眠気が弱く、夕方以後、急速に眠気が強くなるとされています。(補足図A
 このことは、徹夜明けの翌朝に、眠っていないのにすっきり目が覚めた感じがする時間があることや、時差ボケなどで、私たちも、日常で体験します。(補足図BC
2.体内時計の遺伝子
 24時間周期の生物現象は、動物にも植物にも広く見られますが、それを制御する遺伝子が、1990年代末に解明されました。その結果、ショウジョウバエでも、人間でも、ピリオドという同じ遺伝子が、概日周期を刻む体内時計のふりこに当たる重要な役割をしていることがわかりました。
3.ドパミン・トランスポーターの働き
 ドパミンは、二つの神経細胞の間で情報を伝える神経伝達物質のひとつで、ある神経細胞(図3のA神経細胞)が、活動すると、その活動に応じてシナプスと呼ばれる場所で放出されます。そして、この放出されたドパミンは、次の神経細胞(B神経細胞)の受容体に結合して、その神経細胞を活動させます。ドパミン・トランスポーターは、A神経細胞側に存在して、一度、放出されたドパミンを、再びA神経細胞に取り込むことにより、この活動を終結させます。コカインなどの覚醒物質は、このドパミン・トランスポーターに結合して、取り込みをさせなくしてしまいます。そのため、一度、ドパミンが放出されると、シナプス部に、ドパミンが長く留まることにより、B神経の活動が、普通より長く続いてしまいます。このことが、覚醒につながると考えられます。
 ショウジョウバエのfmn(不眠)変異では、このトランスポーターの遺伝子が異常を起こして、トランスポーターがなくなってしまっているため、ドパミンの作用が、とても強まり、覚醒剤を飲んだ時と、同じような状態になっていると考えられます。



2005年8月16日 記載